あの頃彼は「小叮噹」だった②

「機器貓小叮噹」現る(1974年〜1980年前後)

その発端は、今では台湾で「ドラえもん」の単行本など、小学館から殆どの紙出版物を代理発行する台湾青文出版社が約三十年前、財務的に問題が発生し、深刻な経営危機に直面したことであった。
青文出版の創立者・黄樹滋氏はもともと台湾共産党*1の一員で、台湾文学と歴史関係の書籍を出版していた。しかし当時の台湾政府は思想主張に対する箝制が厳しく、しょっちゅう官憲に取り調べられ、本の売れ行きも散々。そんなある日、途方のくれた黄氏は「何を出せば売れるのか」と、西門町で営業する書報攤に聞いてみた。その答えはこうだ。
「台湾人が書いた本なんて売れん、出しても金を溝に捨てるもんだ。出すなら日本人が描いた漫画だな、ほら、この『叮噹』とかは一番売れているよ」*2
その話を聞き、黄樹滋氏は1974年から「叮噹(=ドラえもん)」の出版に踏み切った。児童楽園版の名前に少し手を加え、「叮噹」に愛嬌を込めて「小」をつけ、「小叮噹」にした*3。メインキャラ陣のしずかちゃん(児童楽園版は「靜宜」)を北京語読みで読みやすいように「宜靜」にして、牙擦仔(スネ夫)と肥仔(ジャイアン)も品のいい感じの「阿福」と「技安」に。そしてタイトルも独自なものに変え、「機器貓小叮噹(ロボット猫叮噹ちゃん)」になった。
1978年2月出版の「機器貓小叮噹」青文版*4
その第三冊に収録した「未来の国からはるばると」
子供たちは、今まで見たことのない「叮噹」へ視線を釘付けになった。モノクロだけど、より物語性が富み、冊ごとページ数も多い「小叮噹」に、子供たちは夢中だった。最初は学年誌の連載内容を適当に集めたかなり薄い本(今台湾のオークションでは「0.5㎝薄本」とも呼ばれる)だったが、日本が1974年から出しはじめた「ドラえもん」の単行本*5を真似て、1977年からは少し厚みのある、日本の単行本表紙を流用したモノも出てきた。
児童楽園社にしても青文出版にしても、手当たり次第で「(小)叮噹」を刷って出していたため、当時はリアルタイムで読んできた台湾人(今は40代の人)でも、「ドラえもん」の物語はどこから始まったのか、どういう経緯で今のドラえもんになったのか、それを正しく述べられる人は少ない。そんな人と出会える確率はもしかして千分の一もないじゃないかと思う私だが。

*1:1928年上海で結成。日本統治からの台湾独立を主張し、台湾共和国の建国を目標に活動するのだが、結成後十日で幹部が日本警察に逮捕された事件(上海読書会事件)で、その後日本共産党の台湾支部として活動。1931年の内部闘争により日本共産党から離れたが、新しい幹部たちはすぐ日本統治政府に逮捕され、壊滅状態まで追い込まれた。1945年、日本が台湾の統治を放棄し、中国共産党がやってきて、台湾共産党を再建。黄樹滋氏はこちらの共産党に参加したと思われる。しかし1947年の二・二八事件以後、多くの党員が死亡、もしくは中国や日本へ亡命し、台湾共産党はこれで死滅。現行の台湾独立関係の理論は、1931年以前の台湾共産党の主張を根拠にしているモノが多いため、台湾共産党は再評価されているが、1950〜1970年代生まれの台湾人にとって、共産党はイコール悪魔党(ガッチャマンの中の「ギャラクター」の訳名)みたいなモンだと、学校から教われていた。だから昔杉並区に住みはじめた頃には、頭が分かっていても、気持ち的にはやはり毎日ギャラクター基地内で生活している感じだったよ(笑)

*2:今の小売りや取次ぎも全く同じことを言う。これは何を意味するのだろう。台湾の漫画出版姿勢は三十年前とは同じ、全く進歩がないというのか。

*3:日本語の語感からすると「ちゃん」をつけるようなものかな、「叮噹ちゃん」みたいな。

*4:1978年2月出版の「機器貓小叮噹」青文版、私の手元にある一番古い本。背表紙はスキャンし難いから略。「第三冊」だけどてんとう虫コミックス第一巻の表紙を使用、中身も同じ…「第一冊」と「第二冊」の内容が気になる。

*5:てんとう虫コミックス版のこと。