あの頃彼は「小叮噹」だった①

まだ107年も先のことだけど、9月3日はドラえもんの誕生日。お祝いに(?)特別企画「台湾においてのドラえもん海賊版略史」*1をやっちゃうかな…と思い、とにかく興が冷めないうちにやってみた。

「児童楽園」と一緒にやってきた(1971年頃〜80年代初期?)

台湾の子供たちが「ドラえもん」との最初のコンタクトは、香港の「児童楽園」という、隔週刊の漫画雑誌からだというのは、当時の児童向け読み物の出版や流通事情を記録する資料では、よく言及されるので、定説と見做しても良いだろう。
児童楽園482期(70年代)
1953年創刊し、そして1994年で休刊した「児童楽園」は、隔週刊で41年間に渡り出版し続け、香港では歴史のある児童向け画報雑誌である。判型は145㎜×175㎜で、全ページがカラーで薄い雑誌*2だった。
この「児童楽園」は香港発の雑誌だが、1960年代からは台湾でも売られていた。台北の西門町、重慶南路など書報攤*3では、いつも高く上げられる看板商品だった。一冊10元というのは決して安くない値段だけど*4、「児童楽園」は売れていて、当時の子供の目と心を掴んでいたのは確かだ。今年4月、偶然そのバックナンバー計1006号を手に入れた台湾の古本屋茉莉書店は、台東大學兒童文學研究所に贈呈し、今は台湾の児童向け読み物研究の史料として、その図書館内で保有している*5
1969年12月、「ドラえもん」は小学館「小学四年生」などの学年誌の1970年元月号から連載し始めた*6。「児童楽園」で30年間以上編集長を務めていた張浚華さんのインタビュー記事から見ると*7、彼女が「ドラえもん」に目をつけたのはかなり早い時期で、1971年から「児童楽園」の誌上では、すでに「叮噹」という名前で「ドラえもん」の贋作や改作を発表していた。
児童楽園社から出した「叮噹」の単行本
「児童楽園」の四角い判型では、小学館学年誌で掲載したものをそのまま使えないところもあったので、改作は当たり前のように行われていた。原作はモノクロ原稿なはずだったけど、「児童楽園」掲載版は一回トレースで線画を起こしてまた色を塗った。そのためか、ドラえもんの手足は原作とは違い、鮮やかな黄色だった。また、香港地元の雰囲気を出すために、その「叮噹」のキャラたちは時々チャイナ服を身につけたり、ほかの香港漫画キャラと共演したりもした。
メインキャラはそれぞれ叮噹(ドラえもん)大雄(のび太)靜宜(しずか)牙擦仔(スネ夫)肥仔(ジャイアン)だと、広東語では響きのいい訳名にされ、あとのいわゆる台湾版の訳名にも強い影響をもたらした。その中、のび太の訳名「大雄」は版権時代に入った後の正規版でも、そう呼ばれ続けている。

*1:手元に資料が少なさ過ぎるため、本当に簡略な略史しか記すことができない。

*2:創刊号は28ページ、540号は34ページ。1000号前後の確実なページ数は不明だが、100ページは越えていないようだ。

*3:キオスクだけど…うん…日本やイギリスのと比べるとかなりうす汚い、路上行商っぽい。70年代は全盛期で、西門町や重慶南路は十メートル内で三軒も並ぶほどの高密度。今もそこで見かけるが、だいぶ減ってしまった。一つの時代の終わりにも見える。

*4:1960年代当時、大学卒業生の初任給は4000元ぐらい。

*5:一般閲覧可能かどうかは確認していないので不明。

*6:正確的に言うと「小学四年生」、「小学三年生」、「小学二年生」、「小学一年生」、「幼稚園」と「よいこ」計六冊の学年誌で。1973年3月から「小学六年生」、「小学五年生」での連載も開始、十年間以上も及ぶ小学館の全学年誌連載が始まる。

*7:「『潤物細無聲』─專訪《兒童樂園》的無名英雄張浚華」から。正直な話、むかつく所が多い記事であった。「ドラえもん」は「日本の出版社『講談社』から出版した」とか、「日本の作者は二人でアシスタントは11人も居て、顧問に大学教授や児童心理学者がついて、我々にはそんなことができないから改作をした」とか、「日本の出版社と版権を交渉したが、映画やグッズや文房具の権利も買えと迫られ諦めた」とか、ふざけたことをと白々しく語っていた。