守るべきもの


ここ二、三日、台北市中正紀念堂蒋介石記念館)の牌坊にまつわって騒動が。碑文を変えるか変えないかことで衝突&流血事件までに発展。もういい大人だからこんなことに意地張り合ってどうすんだと思うが。バカバカしい。
まず事件のあらすじをおさらいしてみると、発端は今年の3月に遡る。中正紀念堂の管理責任を負う教育部(日本のかつての文部省にあたる中央省庁の一つ)がそこを「台湾民主記念館」に改名するという行政命令を台北市に下す。法律的に問題があると野党の国民党が反対し、膠着。
5月、陳水扁総統は中正紀念堂の牌坊の碑文「大中至正」を「自由広場」に変えると宣言。「大『中』至『正』」にある「中正」は蒋介石の名(「介石」は字)なので、教育部の行政命令に沿える発言と捉えられる。しかし6月、国会で野党が動員し、教育部が提出した民主記念館の組織案と規則を否決、その行動を弾劾すると。ココで一段落。
11月、教育部が突然月末までに碑文「大中至正」を撤去し、「自由廣場(自由広場)」に変えると言い出し、台北市政府と対立。それでダラダラと12月に引っ張り、5日前後ではついに記念館の封鎖申請など強引な行動に出る。これで「大中至正」を維持する派と、「自由廣場」に変えるべき派のそれぞれの支持者が、記念館前へ集結(と言っても合わせて数十人規模だが)して対立し、群衆が騒ぐわ記者が群がるわ目立とうとする狂人が演説するわ。二年前の空港衝突事件を思い出す光景だった。
で6日、完成当時*1から固定された碑文「大中至正」の四文字の取り外し、及び新碑文「自由廣場」を付け直すため、記念館を三日間緊急封鎖と朝9時に発表、当日朝10時から実施。あまりにも急なんて日本や韓国からの観光客がみんなガッカリして、そのガッカリした表情は各ニュース放送局にて延々と放送される。そして昼前の11時頃、一台のミニトランクが運転手の故意で人込みに突っ込み、新聞記者を五人も巻き込んだ大惨事が。そのうちの一人はトランクの下に巻き込まれて重態になり、テレビのニュース放送は深夜までこの件で埋められる。そして翌日、すべての新聞がショッキングな写真を一面に掲載した。例えば…
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…こんなものとか(from 蘋果日報)。実にヤバイ。
「ただの四文字のためにそんな生々しい事件まで起こすのはどうよ」と私と同年代の台湾のアルファブロガー李怡志(Richyli.com*2は、揶揄を込めて「もういっそのこと新碑文などつけないで、そのままLEDパネルをつければよいのでは」との旨の記事を書いた。「国民党が与党になったら『大中至正』、民進党が与党の時には『自由廣場』、大陸観光客向けに『自由广场』(簡体字)も変えられ、祝祭日に合わせて『耶誕快樂』(メリークリスマス)も自由自在」とかなり具体的な案を出しているので、翌日そのアイデアに基づき合成したLEDパネルの運用予想図が作られてアップされ(下図参照)、碑文ジェネレータまで作られた*3
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LEDパネルが「ご町内お役立ち情報」を映し出す時の予想図

このネタは10代後半から30代中心のネットユーザーに大うけで、どこの若者中心の掲示板へ行っても「LEDにしろLEDに!」とかでリンク張られたりする。現場に集まる群衆とその世代*4はえらい温度差が感じる。
確かに、憎き蒋介石を代表するシンボルとして、その四文字を取り外し、いまからでもいいから自分の大切な何かを守ろうとしている人もいれば、蒋介石を尊敬し、どうしてもその四文字を通してその敬意を守りたい人もいるとは思う。両方の立場とも理解できる。しかし「それ」だけのために、平たく言えばそのコミュニケーションの不具合で生んだ意地のぶつかり合いだけのために、いい年した大人がこれほどの茶番劇を広げる意味は正直の話、30代に入ったばかりの私には理解できない。
それ以外にも、いいや、それ以外でこそ守るべきものが、まだまだたくさんあるのだろうに。
生まれはちょうど蒋介石没した1975年の一年後なので、記憶のある時から中正紀念堂は存在しているような気がする。青い屋根と白い壁、すごく広いところにある雄々しい建築、そして四周を固める、憲兵がまっすぐに立て守っている牌坊。まだ101ビルがない時代で、基隆育ちの子供の私にとっては進んでいる首都・台北の象徴だった。
よくよく思えば、経済が飛躍に発展を遂げた台湾の80年代、台北で就職、就学していた人々は、少ながらず「大中至正」の牌坊を目印にデートやクラブ活動の待ち合わせ場所にしたり、「中正紀念堂」でのイベントを参加したりする記憶を持ているのであろう。特にその近辺にある中・高校の卒業生や現役の生徒にとって、さそがし思い出のあるところだったはず。その世界の景気とともに成長する台湾台北の風景の一部を撤去・変更するのは、近年ではなかなか作りにくい「人々の共同記憶」というの一部を撤去・変更することに相当する、慎重に行うべきことであるはずだ。
なので、教育部のそのまるで砂の城を崩して作り直そうとしか見えない短絡なやり方が、私には全く賛同できない。かと言って、現場に駆けつけ、狂ったように涙を流しながら抵抗する人たちも好ましくない。これはもっと深刻で、もっと地味だが重いテーマで、たとえ議論をしようとしても、もう少し静かで緩やかな表現に似合う話だと思う。
例えば文章で、例えば写真で、例えば映像、例えば唄、例えば絵画、例えば古い新聞や昔ばなしに載せた思い出の中、いろいろと出し合って、いろいろをゆっくりとまとめて、いろいろな解決策や理想像を描いていく話だと思う。
しかしこう考えてみると、驚くほどに見つからない。台湾ではその文章とやら、写真とやら、映像も唄も絵画も、すべてはあんなにも弱々しく、いかにもとチープに扱われ、影響力がなかった。
だからか、とはっとする。
守るべきものが見つからないから、己の意地だけを必死に主張し、見えるシンポルの裏表を守る行為を取るしかない。その醜い姿は、次の世代の心の中の大事のものを壊して、根こそぎにもぎ取っても省みずに。
だから、これからも取り壊されていくんだろう。碑文も、言葉も、この国の人々の心にあるべきの、何もかも。そう、すべてはまるでLEDパネルのように、何でもチカチカで光り映し出せ、そして電源を切れたら何の跡も残らずに消える、何もかも。

*1:1980年完成なのでおよそ30年前のものだが、頑丈な作りでしっかり固定されていて、外す工事にかかった方は苦労してたという。

*2:本職は台湾ヤフーで働くジャーナリスト(兼管理職?)。

*3:冒頭の画像はこれで作った。文字数の上限は6文字で漢字のみ(フォントの制限で出ない漢字もたくさんある)が使える。日本人の方々は自分の名前とかを入れてみるのが面白いかもしれない。

*4:現場の群衆は、映像と写真から見て若くても40代後半、大抵50代〜70代の人が多かったと推定できる。そういえば去年9月からのあのデモも、この世代がメインメンバーだった。