あの頃彼は「小叮噹」だった③

だいぶ間が開いてしまったね(汗)…後ろの部分は長くなりそうなんで、少し構成を変えて続けよう。

海賊版「小叮噹」大乱発(1980年〜1989年前後)

さて、ダメもとに刷ってみたこの「機器貓小叮噹」は大いに売れに売れ、青文出版を財務の危機から救い出すどころか、信じられないほど儲けて、ひと財産を積むことができた。まあ、今でもタルトが売れたらみんなタルト屋を興し、ドーナツが売れたらみんなドーナツ屋を開くような台湾人だから、青文出版の独走なんて許すわけにはいかない。「小叮噹」があんなに売れると目に見えていたから、みんな揃って「小叮噹」を刷りはじめた。なにせ原稿料はタダだから、あとは絵素材の仕入れルートの確保と、翻訳のスピードを競い合うだけだ。
この時期の海賊版はかなり大量に出回っているはずだが、収集するのが意外に容易ではなかった。自分が持っていたモノは小四の時、引越しの際で全部捨てられたように*1、同年代の友達に尋ねたら、一回でも引越し経験があれば、まず手元には残らない。なにぶん粗悪な海賊版なので、コレクションにする気にはなかなか起させず、古本としての価値も低く、古本屋へ持っていかれるより、ちり紙交換やゴミとして出されるのが一般的だそうだ。最後に頼れるのがオークションで、コツコツと買い集めるしかない。
だがこうやって集めてみると、(値段がつり上げられたので買わなかったのも含めて)当時は少なくとも10軒以上の出版社が「小叮噹」を出していた事実を判明した。あと1980年創刊した「東立漫畫周刊」という寄せ集め海賊版漫画雑誌*2にも、創刊からドラえもんを飛び飛びと連載していた。
以下は代表的な何社かを紹介する。

青文版、1986年

70年代から出してた青文版は、1982年から1989年末まで128冊を出していた。内容は学年誌の連載を追っかけていくものが多い。1986年前後通し番号が百番台に入ってから、水増しのため台湾人や大陸人によるオリジナル*3がぽつぽつを出てきて、通し番号140号前後なんかはまるごと一冊藤子不二雄が描いてないドラえもんが。平均一ヶ月には1冊以上を出すというハイスピード。
大千版、出版年不詳

大千版。「金牌(金メダル)」とか書いてあるものと書いていないものに分かれ、カバーデザインもいくつかの種類がある。比較的に薄いが(そのため値段が15元になっているものがある)、冊数が異常に多く、通し番号なんと9000台になってるモノも。本当にそんなに出しているのかは疑わしい。青文版と同じく、ある時期を越えると台湾製ドラえもんの話が結構入っている。

縕天版育民版

左は縕天出版のもので、右は育民出版。縕天版はいわゆる典型的な「粗悪な海賊版」の印象…写植のフォントや形式が混乱で、表紙は勝手に書いて適当に色塗ったもの。育民版は180ページもあって、その時期ではかなり珍しい厚さだった。

巨石版

通し番号はなく、収録作をそのままタイトルにするモノもかなり多い。しかもこのようなやり方を取るモノは出版元さえ明記していないのが多い。整理するのに非常に困る。ちなみに「蟑螂笛子」は「ハメルンチャルメラ(小学三年生・1985年3月)」のこと。

出版スピードを競い合っている感覚は、1985年以後のモノからは特に強く出ていた。その前の表紙は日本オリジナルカラーイラスト、単行本イラスト、アニメのスチールを使うのが中心だが、1985年以後はモノクロ線画を勝手に色を塗る、勝手に書いたりするモノが多かった。紙質が粗悪で、訳もおろそかになってくる、1985年はまさにピークとでもいえるんだろう。値段についてはわりと変動をしていない、100ページ前後で35元という相場が十年間も続いた。
またロゴ、カバーデザインと写植の文字のばらつきなどから見ると、その「海賊版」をコピーする「海賊版海賊版」も存在していたことを気付いた。大千版(叮噹図書版)のがその疑いが特に強く、香港版や青文版のモノをそのまま組み合わせただけとしか見えないのが何冊もあった。恐ろしい。また装丁からみると、華仁版と紫龍版も瓜二つでどちらかがコピーということだろうと思う。このような「海賊版海賊版」があったから、当時は青文版を「正版(オリジナル)」だと信じてやまない子供も多かったという。
しかし青文版の「機器貓小叮噹」以外、奥付のあるモノは皆無。出版時間の判断は極めて難しい。現在はかなり地道のやり方でなんとか特定したいところだ。

地道なやり方

まず収録作品の道具やストーリーから、もとのタイトルを割り出し、その初出誌をさらに割り出す。それとタイトルと一緒に色の付いた付箋に書き、該当箇所に張る。70年代の作品はオレンジ、80年代は緑、90年代やドラえもんじゃない短編は青、台湾オリジナルは赤。とにかくこうやって一冊一冊の収録作品の年代を洗い出すことで、出版時期をある程度判断が付くと思うけど…一冊をやるのに30分〜1時間もかかるが。
こうやって整理していくうちに、台湾という国に生まれた子供たちは、とても哀れだと思い始めた。80年代というと、日本では映画ドラえもんの時代が始まり、多くの人は顧みもなく、自分の青春を「ドラえもん」に費やした時期。藤本先生だって、子供に夢と愛、そして未来への希望を抱かせるよう、体が壊れているのにもかかわらず、がんばって「ドラえもん」を描き続けていた。藤本先生のような漫画家がいたことで、日本の子供は本当に幸せだったな…同じ時期、台湾の子供向け漫画の出版様相というと、「金儲けのためには何でもやる」という、欲と利が先行し、日本で言うと戦後赤本マンガ時代の負の部分だけが80年代で延々と十年間以上も続く*4。子供に何を見せようか、何を抱かせようかのを全く考えても作ってもおらず、ただひたすらに他所の良さそうなモノを持ってきて、とにかく与えてみようとするその感覚に対して…悲しいというか、空しいというか、もはやそれらの感情を超え、惨めささえ覚えてしまった。情けない。
ドラえもん特集を扱った九月号の「挑戦者」を読んで、「ドラえもんがいっぱいで楽しい特集なのに、なぜか哀愁さを感じた」という、20代の読者から寄せてきたメッセージがあった。もしかして私は特集をまとめているうちに、知らず知らずに自分の哀愁を織り込んでしまい、それが滲み出して読まれてしまったのかもしれない。
(次回は台湾製ドラえもんの話をする予定)

*1:青文版中心で薄本厚本合わせて70冊ぐらいは持っていたはずなのにな…うううううっ…orz

*2:1980年〜1985年間発行、計145号。80年代初頭のメイン連載は、ちばてつやあした天気になあれ(新好小子)」、鳥山明「Dr.スランプ(怪博士與機器娃娃)」、寺島優小谷憲一「テニスボーイ(網球風雲兒)」、村上もとか六三四の剣(劍擊小精靈)」、林律雄・大島やすいちおやこ刑事(破案英雄)」、光瀬龍竹宮恵子アンドロメダストーリーズ(帝國風雲錄)」など。あの時私はまだ4〜9才なので、その存在さえ知らなかったけど、当時の少年たちの間には有名な雑誌。

*3:無断改作、盗作ドラえもんのこと。

*4:それほど無節操ではなくなって、形も変えてはいるが、その戦後の感覚は今でも続いてるような気がする…